2025/04/30 (Wed)
[PR]
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
2017/03/02 (Thu)
私の履歴書21(52)
高校1年生は、最も時間に恵まれた時期だった。高校受験も終わって、勉強はしなくていい。塾は私立に入ったんだから、当然辞めさせられる。部活は学校が強すぎるからとても入る気になれない。(と、いうか能力が無いと入れない)通学の時間も片道10分足らず。
自分のしたいことを自由に許された時期である。これこそまさに「ゆとり」だろう。
このころの楽しみといえば、まず睡眠だった。単純に新生活の疲れというものと、成長期が重なっていたからなのか、どれだけ寝ても寝ても寝たりなかった。
高1の秋までは、ほとんど平日は9時くらいには寝ていたのではないだろうか?起床するのはもちろんぎりぎりの8時過ぎだ。天国過ぎる。
そして、相変わらずゲームや漫画も楽しんだが、高1になると、テレビに割く時間がかなり多くなっていた。そう。漫画やゲームや音楽と同じく、日本のテレビ業界も、失われた20年に花開いた文化があったのだ。
私が享受したテレビ時代は、たけし・さんまタモリのBIG3の黎明時代からダウンタウン・ウンナン・とんねるずの3強の時代から緩やかにスタートし、メインはフジテレビと日テレの視聴率争いに、テレ朝、TBSの新人放送作家が入り乱れるまさに戦国時代だった。
当時の流行は、ドキュメントバラエティ。土屋プロデューサーが作り上げた、電波少年・ウリナリの社交ダンスバラエティから、片岡飛鳥プロデューサー式のめちゃイケのSMAPライブ乱入などが大流行だった。
少年ジャンプと同じく、「頑張ればきっといいことがあるよ」「夢と感動が生まれるよ」と、いったメッセージは、音楽や漫画だけでなく、最大手のマスメディアからも、日本全体に発信され、また、そこに多くの人が感動・共感をしていた時代だった。
今では見るも無残な月9などのドラマにも、まだまだ勢いがあった。今までドラマなどほとんど見たことが無かった私でも、漫画の影響からか、GTOは、かなり楽しみな時間になった。
言いたいことも言えないこんな世の中じゃ。と、いう主題歌の時代も、今ではツイッターで何でも言えてしまう時代になったが、果たして言いたいことを言えるようになった私たちは、幸せになったのだろうか?
あまり語らないかもしれないが、私は、テレビ番組が大好きだ。特にあこがれるのは、明石家さんまさん。プレイヤーとしても一流だし、何より多くの人を「活かそう」という意識も見習っている。
私たちの時代のお笑いは、厳しい言葉での突っ込みやいじりが主流だったので、ついつい私もメイド喫茶では、厳しい言葉遣いをしてしまって、反省をすることが多い。
「いじり」と「いじめ」は紙一重。なんて、言葉があるけれど、私は「いじり」は「いじめ」にほぼ近いと思っている。いかにそれで笑いが取れたり、好感度が増したとしても、自身が傷ついたことと、それで得たものは、トレードオフの関係にならない。そもそもの「質」が違うからだ。本人が嫌だと言っていることは、いつだって、どんなことだって嫌なんだと、思う。
私は「笑い」も資本主義の考えなんだと思う。「笑い」と、いう資本主義構造、誰かが定めたグローバリズム構造に身を任せ、時には強引に巻き込み、強制すれば、富めるものもいれば、貧するものもいる。そこで嫌なこともあるけれど、それと同じくらい何かを得られるからそれでいいじゃない。と、考える人もいれば、プラスなんてそもそも生まなくていいから、マイナスの無い。平和で平穏で平坦な世界が良いよ。と、考える人もいる。
どちらが正しいかはわからないけど、過去にはきっと前者の考えが主流だったし、今はきっと後者の考えが主流なんだと思う。
絶対的王者だったさんまさんの好感度が今は落ちている。と、いうのを聞くと、正直寂しい。確かに彼は、時に強引だし、いつもうるさいけど、彼の周りの同業者への目線には愛があふれている。
だけど、今の社会は、それを感じ取れない社会になってしまったのだ。
メイド喫茶もずいぶん変わったな。って、思う。今のメイド喫茶で「君、全然可愛くないね」なんて、言ったら、冗談でも本当に出禁になってしまう世の中だ。
確かに、彼女たちの気持ちはわかるけど、最近とみに、「ファンのあるべき姿」を定義する、メイド、アイドルを見かけると、うんざりする。それならそれで別に構わないけど、そこで「演じられない」「本当の私」「と、いうかむしろキラキラした私だけ」を見つけてほしいと、言われて、どこが一体楽しいのだろうか?
最近、芸能人がどんどん事務所を辞めたり、独立したり、出家したりしているが、背景にはきっと、それだけ我慢ならないのっぴきならない事情があったのだろう。
私たちが享受した素晴らしい日本は、多くの犠牲のもとに成り立っていたのかもしれない。資本主義は、必ず誰かや何かを犠牲にして成り立っている。
まだ、何も知らない私たちは、その犠牲のもとに成り立った文化を大いに楽しみ、自分たちが消費される番になると、そんなのはおかしいと思います。と、喚き散らし、犠牲にならない。
いやはや、なんとも素敵な時代に生まれたような気分になる。
言いたいことを誰もが言えば、幸せの総量は上がったのだろうか?下がったのだろうか?
理論的には前者のはずだが、後者のように感じる私は、やはり恵まれた環境で生きていたからだからだろうか?
自分のしたいことを自由に許された時期である。これこそまさに「ゆとり」だろう。
このころの楽しみといえば、まず睡眠だった。単純に新生活の疲れというものと、成長期が重なっていたからなのか、どれだけ寝ても寝ても寝たりなかった。
高1の秋までは、ほとんど平日は9時くらいには寝ていたのではないだろうか?起床するのはもちろんぎりぎりの8時過ぎだ。天国過ぎる。
そして、相変わらずゲームや漫画も楽しんだが、高1になると、テレビに割く時間がかなり多くなっていた。そう。漫画やゲームや音楽と同じく、日本のテレビ業界も、失われた20年に花開いた文化があったのだ。
私が享受したテレビ時代は、たけし・さんまタモリのBIG3の黎明時代からダウンタウン・ウンナン・とんねるずの3強の時代から緩やかにスタートし、メインはフジテレビと日テレの視聴率争いに、テレ朝、TBSの新人放送作家が入り乱れるまさに戦国時代だった。
当時の流行は、ドキュメントバラエティ。土屋プロデューサーが作り上げた、電波少年・ウリナリの社交ダンスバラエティから、片岡飛鳥プロデューサー式のめちゃイケのSMAPライブ乱入などが大流行だった。
少年ジャンプと同じく、「頑張ればきっといいことがあるよ」「夢と感動が生まれるよ」と、いったメッセージは、音楽や漫画だけでなく、最大手のマスメディアからも、日本全体に発信され、また、そこに多くの人が感動・共感をしていた時代だった。
今では見るも無残な月9などのドラマにも、まだまだ勢いがあった。今までドラマなどほとんど見たことが無かった私でも、漫画の影響からか、GTOは、かなり楽しみな時間になった。
言いたいことも言えないこんな世の中じゃ。と、いう主題歌の時代も、今ではツイッターで何でも言えてしまう時代になったが、果たして言いたいことを言えるようになった私たちは、幸せになったのだろうか?
あまり語らないかもしれないが、私は、テレビ番組が大好きだ。特にあこがれるのは、明石家さんまさん。プレイヤーとしても一流だし、何より多くの人を「活かそう」という意識も見習っている。
私たちの時代のお笑いは、厳しい言葉での突っ込みやいじりが主流だったので、ついつい私もメイド喫茶では、厳しい言葉遣いをしてしまって、反省をすることが多い。
「いじり」と「いじめ」は紙一重。なんて、言葉があるけれど、私は「いじり」は「いじめ」にほぼ近いと思っている。いかにそれで笑いが取れたり、好感度が増したとしても、自身が傷ついたことと、それで得たものは、トレードオフの関係にならない。そもそもの「質」が違うからだ。本人が嫌だと言っていることは、いつだって、どんなことだって嫌なんだと、思う。
私は「笑い」も資本主義の考えなんだと思う。「笑い」と、いう資本主義構造、誰かが定めたグローバリズム構造に身を任せ、時には強引に巻き込み、強制すれば、富めるものもいれば、貧するものもいる。そこで嫌なこともあるけれど、それと同じくらい何かを得られるからそれでいいじゃない。と、考える人もいれば、プラスなんてそもそも生まなくていいから、マイナスの無い。平和で平穏で平坦な世界が良いよ。と、考える人もいる。
どちらが正しいかはわからないけど、過去にはきっと前者の考えが主流だったし、今はきっと後者の考えが主流なんだと思う。
絶対的王者だったさんまさんの好感度が今は落ちている。と、いうのを聞くと、正直寂しい。確かに彼は、時に強引だし、いつもうるさいけど、彼の周りの同業者への目線には愛があふれている。
だけど、今の社会は、それを感じ取れない社会になってしまったのだ。
メイド喫茶もずいぶん変わったな。って、思う。今のメイド喫茶で「君、全然可愛くないね」なんて、言ったら、冗談でも本当に出禁になってしまう世の中だ。
確かに、彼女たちの気持ちはわかるけど、最近とみに、「ファンのあるべき姿」を定義する、メイド、アイドルを見かけると、うんざりする。それならそれで別に構わないけど、そこで「演じられない」「本当の私」「と、いうかむしろキラキラした私だけ」を見つけてほしいと、言われて、どこが一体楽しいのだろうか?
最近、芸能人がどんどん事務所を辞めたり、独立したり、出家したりしているが、背景にはきっと、それだけ我慢ならないのっぴきならない事情があったのだろう。
私たちが享受した素晴らしい日本は、多くの犠牲のもとに成り立っていたのかもしれない。資本主義は、必ず誰かや何かを犠牲にして成り立っている。
まだ、何も知らない私たちは、その犠牲のもとに成り立った文化を大いに楽しみ、自分たちが消費される番になると、そんなのはおかしいと思います。と、喚き散らし、犠牲にならない。
いやはや、なんとも素敵な時代に生まれたような気分になる。
言いたいことを誰もが言えば、幸せの総量は上がったのだろうか?下がったのだろうか?
理論的には前者のはずだが、後者のように感じる私は、やはり恵まれた環境で生きていたからだからだろうか?
PR
コメント
カレンダー
03 | 2025/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |
フリーエリア
最新コメント
[09/15 なべ]
[09/08 なべ]
[08/26 なべ]
[05/19 ただのDD]
[05/18 ただのDD]
[05/17 ただのDD]
[05/15 なべ]
[05/14 なべ]
[05/05 ただのDD]
[05/05 ただのDD]
[05/05 ただのDD]
[05/03 ただのDD]
[05/02 ただのDD]
[05/02 ただのDD]
[04/24 ローズ信者]
[09/13 ◯ちゃん]
[08/29 なべ]
[08/29 なべ]
[01/08 ◯ちゃん]
[01/02 ◯ちゃん]
[12/03 Tossy]
[11/26 なべ]
[11/23 ブルー]
[11/21 ◯ちゃん]
[11/20 ◯ちゃん]
最新記事
(10/27)
(10/08)
(09/08)
(09/07)
(08/31)
最新トラックバック
プロフィール
HN:
ろーず
性別:
非公開
ブログ内検索
最古記事
(01/02)
(01/02)
(01/03)
(01/03)
(01/04)
P R
忍者アナライズ