2025/04/30 (Wed)
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2017/02/17 (Fri)
私の履歴書13(44)
バブルがはじけた日本は、徐々にニュースも暗いものが目立ち始めていた。私が小学生のころにはオウム真理教のサリン事件が問題になったし、ヒ素カレー事件の話題や、インドネシアあたりで飛行機が落ちたなんてことも話題になっており、そんな時期にインドネシアに行こうなんて考える中学生は、確かに珍しかったかもしれない。今でもそうだが、あのころだって、ジャパン・アズ・ナンバーワンの意識は子供に無意識に刷り込まれていたのだ。
出発の朝は確か月曜日だった。初めて成田空港の中に入り、国際線の出発を待つローズは、無意識で当然のように少年ジャンプを購入していた。
引率予定であったどこかの中学校の先生は、「それ、どうする気だ?」と、当然ながら問い合わせてきた。「いや、日本の文化を紹介しようと思って」中2病のローズ氏は、咄嗟の嘘が得意だった。しかし、実際にこれが大ウケだった。
当時はwindous95の発売によりパソコンブームが確かに日本に来ていたが、パソコンはあくまで家庭で楽しむもので、今のようにグーグル先生がなんでも教えてくれるなんて夢のまた夢の世界だった。なんなら「検索」なんて技術もなくて、個人から個人に直接URLを教えてもらい、直接打ち込まないとHPにたどり着けないような時代だった。
今だったら色々調べて他国の文化をある程度想像することもできただろうが、やはり行ってみないと何もわからない時代でもあった。
インドネシアでは、確かに日本の文化がヒットしていた。私が飛行機の中で読み終わったジャンプを渡すと、現地のホームステイの少年は、インドネシア語で書かれたドラゴンボールの単行本を渡してくれた。本当に大切にしていた宝物であろう「それ」は、読んで捨てるつもりの週刊誌と交換するにはなんだか申し訳ないような気持ちになった。
今思えば、翌週のジャンプを手に入れることすら必死になっていた私がいるのだから、その、はるか先の未来を知ることができたインドネシアの少年たちは、それはそれは幸せだったろう。逆に未来を見せすぎて申し訳なかったかもしれない・・・。
9泊10日の長い長い旅行だったが、正直そんなに記憶に残ったことはなかった。飛行機の手配から、ホテルの手配まで、ほとんど人にやってもらったからだ。決められたスケジュール通りで、自分で考えて動かないことは、人生の経験値としては大して得ることが
できない。
ただ、その反面、かなりの好待遇を受けたことは良い経験だった。日本赤十字が現地の人にとってどういう存在だったのかは謎だが、訪問する場所、訪問する場所、どこに行っても大人気だった。これにサインをしてくれ!と、熱烈に取り囲まれて、熱意があるのはいいことだなー。なんて、同じ年代の少年たちに対して、冷めた中二病ごっこのローズ氏は思っていた。熱量があればなんだってできるのに。
真ん中の3日間は、貴重な現地でのホームステイの時間だった。英語はそれほど得意ではなかったが、人間不思議なもので、長く英語圏で暮らしていると、自然と日本語より英語が出てくるようになっていた。帰るころにはむしろ、日本語ってどうやってしゃべるっけ?なんて感じだった。
習うより慣れろとよく言うがまさにその通りだ。人間、必要になればたいていのことはやらざるを得ない。
しかし、当時のローズ少年には当事者意識が足りなかった。今なら悔やんでも悔やみきれないほどの抜群の環境を自ら捨てていたのだ。最低限の訪問スケジュールなどはこなすものの、それ以外のオフの時間は、現地の少年たちと言葉を交わすことはしなかったのだ。
それどころか、一緒に日本から同行した中学生や高校生の仲間とも特に交流を深めるようなこともしなかった。コミュ障なんて言葉も当時はなかったけど、自由時間にずっと部屋にこもって三国志を呼んでいる少年は、コミュ障以外の何物でもないだろう。
しかし、コミュ障にも関わらずインドネシアまで行って引きこもるローズ。別の意味では大物である。
そうしてローズの中2の夏は終わっていった。
出発の朝は確か月曜日だった。初めて成田空港の中に入り、国際線の出発を待つローズは、無意識で当然のように少年ジャンプを購入していた。
引率予定であったどこかの中学校の先生は、「それ、どうする気だ?」と、当然ながら問い合わせてきた。「いや、日本の文化を紹介しようと思って」中2病のローズ氏は、咄嗟の嘘が得意だった。しかし、実際にこれが大ウケだった。
当時はwindous95の発売によりパソコンブームが確かに日本に来ていたが、パソコンはあくまで家庭で楽しむもので、今のようにグーグル先生がなんでも教えてくれるなんて夢のまた夢の世界だった。なんなら「検索」なんて技術もなくて、個人から個人に直接URLを教えてもらい、直接打ち込まないとHPにたどり着けないような時代だった。
今だったら色々調べて他国の文化をある程度想像することもできただろうが、やはり行ってみないと何もわからない時代でもあった。
インドネシアでは、確かに日本の文化がヒットしていた。私が飛行機の中で読み終わったジャンプを渡すと、現地のホームステイの少年は、インドネシア語で書かれたドラゴンボールの単行本を渡してくれた。本当に大切にしていた宝物であろう「それ」は、読んで捨てるつもりの週刊誌と交換するにはなんだか申し訳ないような気持ちになった。
今思えば、翌週のジャンプを手に入れることすら必死になっていた私がいるのだから、その、はるか先の未来を知ることができたインドネシアの少年たちは、それはそれは幸せだったろう。逆に未来を見せすぎて申し訳なかったかもしれない・・・。
9泊10日の長い長い旅行だったが、正直そんなに記憶に残ったことはなかった。飛行機の手配から、ホテルの手配まで、ほとんど人にやってもらったからだ。決められたスケジュール通りで、自分で考えて動かないことは、人生の経験値としては大して得ることが
できない。
ただ、その反面、かなりの好待遇を受けたことは良い経験だった。日本赤十字が現地の人にとってどういう存在だったのかは謎だが、訪問する場所、訪問する場所、どこに行っても大人気だった。これにサインをしてくれ!と、熱烈に取り囲まれて、熱意があるのはいいことだなー。なんて、同じ年代の少年たちに対して、冷めた中二病ごっこのローズ氏は思っていた。熱量があればなんだってできるのに。
真ん中の3日間は、貴重な現地でのホームステイの時間だった。英語はそれほど得意ではなかったが、人間不思議なもので、長く英語圏で暮らしていると、自然と日本語より英語が出てくるようになっていた。帰るころにはむしろ、日本語ってどうやってしゃべるっけ?なんて感じだった。
習うより慣れろとよく言うがまさにその通りだ。人間、必要になればたいていのことはやらざるを得ない。
しかし、当時のローズ少年には当事者意識が足りなかった。今なら悔やんでも悔やみきれないほどの抜群の環境を自ら捨てていたのだ。最低限の訪問スケジュールなどはこなすものの、それ以外のオフの時間は、現地の少年たちと言葉を交わすことはしなかったのだ。
それどころか、一緒に日本から同行した中学生や高校生の仲間とも特に交流を深めるようなこともしなかった。コミュ障なんて言葉も当時はなかったけど、自由時間にずっと部屋にこもって三国志を呼んでいる少年は、コミュ障以外の何物でもないだろう。
しかし、コミュ障にも関わらずインドネシアまで行って引きこもるローズ。別の意味では大物である。
そうしてローズの中2の夏は終わっていった。
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